2008/03
科学技術で産業育成 島津斉彬(1)君川 治


電信実験の地ガス灯実験の灯篭

科学技術の先陣争いが薩摩藩と佐賀藩で行われているが、別の面でも類似点がある。
島津斉彬の正室は、13代将軍家斉の弟で一ツ橋家当主徳川斉敦の娘英姫であり、鍋島直正の正室は13代将軍家斉の娘盛姫で、従姉妹同士である。
 NHK大河ドラマ「篤姫」の放送で本屋の店頭も篤姫ブームである。薩摩藩は関ヶ原の戦いで西軍に付くが、西国の雄藩で旧領を安堵された77万石の外様大名だ。
 幕府は武家諸法度を定めて諸藩に参勤交代をさせるが、薩摩から江戸まで1年おきに参府する大名行列の費用は膨大な出費であったと思われる。幕府は全国300余藩の統治手法として国替え(領地替え)を頻繁に行うが、外様の薩摩藩は徳川家と血縁関係を強化して領地替えを防いだ。篤姫も13代将軍徳川家定の御台所となり、家定亡き後も天璋院として大奥を取仕切り、幕末から明治まで時代の波に揺られた生涯であった。
 薩摩藩28代藩主斉彬は曽祖父重豪に可愛がられて育てられた開明派藩主であるが、実父斉興は曽祖父に似て西洋趣味の斉彬を敬遠し、外交や財政に対する考えを異にしていたこともあり、43歳になるまで藩主の座を譲らなかった。25代藩主島津重豪は蘭癖大名と云われ、西洋の文物を盛んに購入して藩の財政を危うくしたと云われているが、藩校造士館、演武館、医学院や天文館を創設して人材教育に力を注ぎ、オランダ商館長と交流して西洋文化を吸収し、オランダ通詞を雇って自らも蘭学を学ぶ優れた藩主であった。この影響を強く受け継いだ斉彬は、鍋島・宇和島・水戸・越前などの有力藩主と交流を図る他、江戸在住の多くの蘭学者たちとも交流を深めた。
 薩摩藩には日本で初めてというものが沢山ある。
 鹿児島の島津藩主別邸仙巌園に行くと庭園の中に大きな笠を拡げたような灯篭がある。日本で最初にガス灯の実験をした名残だ。庭園の入口を入ると正面に大砲が置いてあり、その後に高く土盛りした反射炉の遺跡がある。反射炉の造築は佐賀藩が先であるがNo2が薩摩藩。この反射炉で和鉄を使用しても大砲が破裂してしまうので、佐賀藩は鉄を輸入しているが、溶鉱炉の築造は薩摩藩が一番早い。ただし、この高炉は成功せず実用化はされなかった。
 1837年にフランスのダゲールによって発明された写真機は長崎の上野彦馬と下田の下岡蓮杖によって普及させられるが、最初に使用したのが彦馬の父上野俊之丞であり、次に使用した島津斉彬の写真が現存する日本最古の写真である。
 電信機の実験は1856年に薩摩藩鶴丸城内で600mの電線を架設して行われたと鹿児島の探勝園に記念碑が建っている。佐賀藩の中村奇輔が電信機を製作したのが1854年で、薩摩藩島津斉彬に進呈されたとの記録もある。
 日本最初の蒸気船は佐賀と薩摩で争っている。佐賀城本丸歴史館には蒸気船と蒸気機関車の模型がある。しかし海を走ったのは薩摩藩の雲行丸1855年が最初で、佐賀藩の凌風丸は10年後の1865年竣工である。(佐賀藩は自力で作った日本最初と云っている)
 薩摩藩は水車を動力とした機械式紡績工場を最初に稼動させ、鉛式活字の製作も1865年に成功したと記録がある。
 島津斉彬がいかに英邁な藩主であっても、自分一人でやるのは不可能で有り、このような科学技術は誰が遂行したのだろうか。佐賀藩では佐野常民が推進者であり、その下に蘭学者石黒寛二、中村奇輔がおり、天才技術者田中久重がいる。薩摩の場合は蘭学者、技術者が見えない。(次号に続く)


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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